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 山本勘助の墓   <長野市松代町柴> アクセス 

■山本勘助の墓







 山本勘助は三河の国(愛知県)の出身で初めは今川義元に仕えていたが、のちに武田信玄の家臣となった。流浪の旅に出て諸国の事情に精通し、さらに天文、兵法、槍術など武芸百般を体得した信玄の参謀で、信玄(晴信)の信任も厚く信玄から晴幸の名も賜った。諸国の情報をすばやく入手し数々の策略を立てたといわれている。また、築城術にも優れ、海津城の構築も手掛けたと伝わる。永禄四年(1561)九月の川中島合戦では、自らが進言した「啄木鳥戦法」を上杉謙信に見破られたため武田軍が苦戦に陥ったことに責任を感じ、討死覚悟で敵中深く奮戦し力尽きたと伝わる。
 この墓は昔はこの南方の高畑附近にあったが、元文四年(1739)に松代藩家老蒲原重栄(カンバラシゲヒデ)がこの地に移設し、碑を建てたものである。 (現地説明文より)
 
浮世絵を見る⇒山本勘介入道晴行小高き丘にて馬蹄をやすむる図
浮世絵を見る⇒川中島百勇将戦之内軍師・山本勘助入道晴幸
浮世絵を見る⇒英雄六家撰 山本勘介入道道鬼斎
■勘助宮跡の碑

【碑文】 古戦場邊有古宮 老松蒼鬱欲凌空
      誰哉樹下運奇策 如見千秋道鬼翁


 勘助宮跡はこの地より北東約100米の位置にあった。もともとは北小森集落の氏神で建御名方神を祭る諏訪社(真木神社)であったが、永禄四年(1561)の合戦でこの地で討死した山本勘助を偲び、土地の者が勘助宮と呼ぶようになった。欅の老木、鎧掛けの松、鞍掛けの松などと呼ばれた老樹がうっそうと茂り、明治末期に神社併合で今の東福寺神社に合祀されるまで北小森集落で祭りをしてきた。昭和初年、社木が老齢のため枯れ始めたので、地区の有志が樹木社殿を整理し、その跡に数十本の桜を植えこの碑を建立した。碑文は文学博士南條文雄先生が川中島古戦場を訪問の際、勘助宮にも立ち寄り勘助を偲び書かれたもので、書はこの合戦の戦略に興味をいだいた寺内元帥が陸軍大学校校長時代に教官・学生を引率して古戦場全体を視察したおり、勘助宮をたずねた縁で後日揮毫していただいたものである。平成七年(1995)、南長野運動公園(長野オリンピックスタジアムがある)として整備されたおり、ここに移設された。
                                (現地説明文より)
※古戦場の辺りに古宮有り 老松蒼鬱として空を凌がんと欲す
              誰か樹下奇策を運らす  千秋道鬼翁を見る如し
■胴合橋

 永禄四年(1561)九月十日、山本勘助が篠ノ井東福寺泥真木明神(勘助宮)附近で戦死した後、その家来が上杉方から奪い返した首を遺体確認のため胴と合わせた場所といわれる。朝霧の中から突如として姿を現わした越後軍一万二千の大軍が武田方の備えを次々撃破し破竹の勢いで信玄本陣目がけて突進する。これを見た勘助は長嘆して「甲越合戦すること十五年、その間大小の合戦十余回あったが敵の作戦を見損じたことは一度も無かった。のみならず川霧のために大軍が迫るのを知り損ねたことは我が武運の尽きる時。」と言って越後勢の中に突入し、家臣もろとも首を落とされてしまったという。勘助の家来たちが主人勘助の首と胴を合わせた場所がこの胴合橋であったというが、典厩信繁という説もある。
  長野市誌編纂専門委員 岡澤由往         (現地説明文より)


 なお、この附近の地名は赤川というが、合戦で川の水が三日間赤く染まったとの言い伝えがある。

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