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一勇斎国芳 大判錦絵 絵師紹介
刊年:嘉永6年10月 版元:林屋庄五郎

 信玄の足軽大将の一人。三河国宝飯郡牛窪に生まれる。
本姓は源氏で父祖は代々駿河国富士郡山本村に住し、祖父貞久は今川氏に仕えて軍功を上げ、姓を山本と改めた。父は図書といい、明応二年(1493)に図書の四男として生まれた。はじめ源助貞幸と称したが、十二歳で三河国牛窪の牧野家の家臣大林勘左衛門の養子となり、勘助と改めた。二十歳の時、養家を去って諸国遍歴の旅に出たといわれる。その後武田晴信(信玄)に仕え、軍略、築城など軍師として重用された。
 甲陽軍鑑によると天文十二年(1543)、勘助は武田の重鎮板垣信方の推挙により信玄に仕え、その一字を賜って名を晴幸と改めたという。背は低く色黒、隻眼で片足が不自由、指も一本欠けていたが、晴信は勘助の優れた才能を見抜き、二百貫文の知行に足軽二十五人を付けて召抱えたという。
 しかし異説もあり、三河出奔の後駿河の今川氏に仕えたが、義元は勘助を軽んじたため駿河を去り、信玄に仕えたという説もある。
 甲陽軍鑑では勘助の軍師としての活躍が随所に記され、そのことで江戸時代には大変な勘助人気となり、それがかえって勘助の架空人物説を助長させることになった。しかし昭和四十四年に、菅助と明記された弘治三年(1557)六月二十三日付の信玄書状(市河文書)が発見され、勘助がこのころ信越国境に近い豪族たちに接触、信玄の側近として活躍していたことが証明されたのである。
 永禄四年(1561)九月十日の第四次川中島合戦で自らの進言した啄木鳥作戦の失敗に責任を感じ、奮戦の末討死した。享年六十九歳であった。
 勘助の墓は長野市松代町柴の千曲川土手沿いにある。


川中島合戦史跡めぐり/山本勘助の墓

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