ここは信州川中島、ご当地ゆかりの『川中島の戦い』を浮世絵で紹介するコーナーです。
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当サイトに登場する浮世絵師集団 歌川派の系譜と絵師紹介

国政T 国貞U(豊国W) 国貞V
国貞T(豊国V) 貞秀
国安T 国周───── 周延─ 延一
豊国T─ 国直T 芳艶
国芳───── 芳員 耕魚
豊重(豊国U) 芳藤 年英
豊春 国綱 芳虎 年景
芳幾 年恒 秀峰
芳年───── 年方─ 清方 深水
芳綱 輝方 巴水
芳房 蕉園
暁斎───── 暁翠 静方
豊広── 広重T──── 重宣(広重U) 暁雲
広兼 重政(広重V)

※T、Uは初代、二代を表します。
※当時歌川派は「歌川にあらずんば浮世絵師にあらず」と言われるほど隆盛を誇っていました。安藤広重(歌川広重)も門人の一人です。
※国芳⇒芳年と続く浮世絵師の系譜は水野年方⇒鏑木清方⇒伊東深水へと近代日本画壇に脈々と受け継がれ現代に至っています。



歌川一勇斎国芳  Utagawa Kuniyoshi
生没年:寛政9年〜文久元年(1797-1861) 享年65
作画期:文化9年頃〜万延元年(1812-1860)
号:一勇斎、朝桜楼、採芳舎など

 初代豊国の門弟。国貞、広重と共に、幕末浮世絵界を牛耳った。その異色の才能は北斎にも匹敵する。
 俗称、井草孫三郎。幼名を芳三郎といった。神田の染物業に生まれ、幼少の頃より絵に興味をいだき、北尾重政、政美等の絵本を真似て人物描写の基本を会得したと伝えられる。初め勝川春亭に学んだと言われ、文化8年に豊国の門下となった。当時同門の国直の家に寄宿していたという。その頃すでに兄弟子の国貞(三代豊国)は新進として名声を高めていたが、国芳の場合は世評にのぼることも無く、二流絵師としてその後の十余年間を無為に過ごした。文政10年ごろより、良き後援者(尾張家御用商人遠州屋佐吉)の力添えもあって、「水滸伝」を題材に武者絵の連作を開始、これが爆発的な人気を呼ぶところとなった。折しも経済力がついた庶民のエネルギーは、画面も破れんばかりの勇猛な武者絵に気持ちを重ね、刺青の流行と相まって国芳の図柄は血気盛んな男たちの背中にも踊った。いつしか彼は武者絵の国芳として国貞に対抗する大きな存在となったのである。以来、不遇時代の鬱憤を晴らすかのように、美人画、風景画、風刺画、狂画(戯画)などにその才能を遺憾なく発揮した。特に風刺画には彼の権力におもねらない反骨の精神がのぞかれ、高く評価する人が多い。




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歌川五渡亭国貞(三代豊国)  Utagawa Toyokuni
生没年:天明6年〜元治元年(1786〜1864)
本名:角田庄蔵  作画期:文化4年〜没年
号:五渡亭、一雄斎、香蝶楼、一陽斎、琴雷舎、月波楼、不器用又平など多数

 初代豊国の門人としては最も大きな名声を得、役者絵、美人画に優れた才能を示した。本所五ツ目、竪川の渡船場を経営する家に生まれた。十五、六歳で初代歌川豊国に入門、国貞と名乗って享保の初年の頃から作品を発表している。初めは一雄斎の号を用いていたが、家業から付けた五渡亭の号を使うようになり、この頃から新しい時代の美人画・役者絵を描いて人気絵師となった。この五渡亭の時代が絶頂期で傑作と言われる作品はほとんどこの時期に集中している。文化から文政にかけて彼の人気は高まる一方であったが、やはり濫作が過ぎたためか香蝶楼の時代には、類型的な描写が目立つようになった。弘化元年(1844)初代豊国を継いで一陽斎と号し二代豊国を名乗ったが、たとえ短い期間とはいえ正式に二代目を継いだ初代豊国の娘婿、豊重の存在があるから正確には三代である。しかし豊国の名を継いでも画風に大きな変化は無く、見るべきものは少ない。若くして画業を大成させてしまった絵師と言えるであろう。歌川派の総帥となり名実共にトップの座に君臨し、北斎に次ぐ79歳の長寿を保ち、厖大な量の作品を残した。その数は版画だけでも1万点を超えると言われている。




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歌川一立斎広重(安藤広重)  Utagawa Hiroshige 
生没年:寛政9年〜安政5年(1797〜1858) 享年62
作画期:文政元年〜没年(1818〜92)
号:一遊斎、一幽斎、一立斎

 広重は江戸八代洲河岸(現・丸の内馬場先門)の定火消屋敷に生まれた。父は安藤家に入婿の定火消の同心。幼名徳太郎、のち重右衛門、さらに徳兵衛と改名。十三歳で父母を相次いで亡くし、火消職を継ぐ。幼少の頃より絵を描くのが好きで、十五歳のとき初代豊国に入門を希望するが、門弟多数のため断られ、豊広の門下となる。翌年、師の一字と本名の一字をとった広重の名をもらい、文政元年(1818)一遊斎と号し美人画や武者絵を描いた。天保二年(1831)頃、一幽斎号を用いて川口屋正蔵から「東都名所」十枚シリーズを版行して風景画に開眼。当時輸入されたばかりのベロリン藍を用い、清新で力の入った画面構成であった。
 祖父の三度目の妻に男子が生まれたので家督を戻し、自身は画業に専念。天保三年、幕府の八朔御馬献上の行事を記録するため行列に同行して京に上った。この時のスケッチをもとに翌四年、一立斎と号して「東海道五十三次」五十五枚シリーズを竹内保永堂から出版。あたかもその地へ行ったような気分になるという評判で大いに売れた。
 風景画の第一人者の評価を得た広重に次々と注文が殺到。「京都名所」「近江八景」「本朝名所」「東都名所」「江戸近郊八景」「木曾街道六十九次」と風景画シリーズを円熟した筆で描きあげた。
 最晩年、三枚続きのワイド画面で雪月花になぞらえた大作「木曾路の山川」「武陽金沢八勝夜景」「阿波鳴門之風景」に意欲を見せる。また、安政四年(1857)から五年にかけて、全百二十図の大作「名所江戸百景」を制作。横浜開港の前年、安政五年(1858)江戸で流行したコレラに罹り世を去った。




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歌川一魁斎芳年(月岡芳年)  Utagawa Yoshitoshi
生没年:天保10年〜明治25年(1839〜92) 享年54
作画期:嘉永6年〜没年(1853〜92)
号:一魁斎、玉桜楼、大蘇など

 国芳の門人として、また明治期を代表する最も才能豊かな絵師としてその名が高い。風景画を除くあらゆる分野に個性的な才を示し、その幅広い作品群の中でも残酷絵は芥川龍之介、谷崎潤一郎、三島由紀夫、江戸川乱歩らに強烈な影響を与えたといわれる。本名、吉岡米治郎。後に画家月岡雪斎の家を継ぎ、月岡姓を名のった。十二才(嘉永3年)で国芳門下となり、十五歳で一魁斎と号して早くも処女作を刊行するほど早熟の才能であった。慶応元年(1865)から翌年にかけて兄弟子の芳幾と合作でシリーズ「英名二十八衆句」を制作、その凄惨な残酷絵は、のちの上野戦争の直後、彰義隊の死体を実見して描いたといわれるシリーズ「魁題百撰相」に表現された死のエクスタシーへと結実していった。時勢に適って大評判となり、一躍人気絵師となった芳年であったが急激に増大した仕事の依頼で彼の神経はすり減らされ、ついには発狂するという悲劇的な事態を招いた。だが翌明治六年快癒し、大きく蘇るという意味を込めて「大蘇」と号し再び絵筆を握りはじめ、同二十四年に再び精神を病んで入院、死に至るまで、怪奇、歴史、美人画とすべての分野に健筆をふるい、並ぶもののない幅広い活躍をした。残酷絵にのみ評価が集まりがちであるが、決してそれだけの絵師ではない。明治十八年頃の浮世絵師番付で人気一位、当時の門人は八十名を超した。国芳〜芳年と続く浮世絵師の系譜は、水野年方〜鏑木清方〜伊東深水へと画風を変えながら現代日本画壇に脈々と続いている。




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歌川一寫ヨ芳幾   Utagawa Yoshiiku
生没年:天保4〜明治37(1833-1904) 享年72
作画期:安政初期〜明治22年頃(1855?-1889?)
号:一寫ヨ、寫ヨ、朝霞楼、寤「弥、酒落斎など。
本名:落合幾次郎。浅草田町の引手茶屋に生まれる。国芳門下。

 国芳の門下で芳年には兄弟子に当たる。芳年とともに国芳門下の双璧とされ、作域も幅広い。中でも芳年と組んだ残酷絵「英名二十八衆句」シリーズが著名である。浮世絵の足元を脅かす写真に打ち勝とうと試みた「俳優写真鏡」は木版表現として苦心した傑作。
 安政2年10月の江戸の大地震で結婚間もない妻と子を失うが、その悲しみをひた隠し、大地震の惨状を克明に描き出し、何点もの作品を生み出した。これが芳幾の名を広めた最初の仕事である。従来芳幾は芳年、国周の下に置かれ評価も芳しくないが、明治5年頃までは3人の中で最も人気の高い絵師であった。明治5年に現在の毎日新聞の前身である「東京日日新聞」の創刊に仲間と共に着手、実業界に身を投じた。同7年、「新聞錦絵」と呼ばれる新しい様式の報道絵を案出、画業は続けてはいたが事業の成功にしたがって創作量は減少、その間に芳年、国周に追い越されてしまった。同門の芳年とはライバル意識も強く、時には反目しあっていたが、芳年が没したとき葬式の席上で大声を上げて泣いたという挿話も残っている。親孝行で人情家という側面から人気も高く、注文も多かったようだ。新聞錦絵ブームは長くは続かず、その後、事業家の芳幾はいくつかの事業を手掛けるが失敗、不遇な晩年を送った。




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歌川一猛斎芳虎   Utagawa Yoshitora
生没年:不詳
作画期:天保初頭〜明治20年頃(1832?-1887?)
号:一猛斎、孟斎、錦朝楼。
本名:永島辰五郎。国芳門下。

 作画は天保初頭より明治20年頃までの長きに及び、美人画、大首役者絵、横浜絵とあらゆる分野に筆を取った。明治元年の絵師の人気番付では、貞秀につぎ堂々二位を占め、幕末、明治を代表する絵師の一人である。師の国芳と不和になり、破門されたと伝えられるが、国芳門としては芳幾、芳年とならぶ大きな存在であろう。特に大首役者絵には、三代豊国にも匹敵する技量を示して評価が高い。




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歌川一聲斎芳藤   Utagawa Yoshifuji
生没年:文政十一年〜明治二十年(1828〜1887) 享年60
作画期:嘉永頃(1848〜54)〜没年
号:一聲斎、一鵬斎

 本名西村藤太郎。国芳の門人。作画は嘉永ごろから明治十年ごろまで見られ、文久年間には美人画、横浜絵、武者絵などを描いている。彼が得意としたのは、双六、組立絵等おもちゃ絵の分野である。幕末、明治においてその分野の過半数は彼の手によるものであり、「おもちゃ絵の芳藤」と呼ばれていた。工夫を凝らし丁寧な仕事振りは玩具絵の工夫に向いていて、次第に名声は高まり、明治期には玩具絵専門絵師となって活躍した。安価に大量複製できる木版技術を用いて作られた浮世絵版画は、役者絵や美人画だけでなく、子どものための絵本、図鑑、切り抜いて遊ぶおもちゃ、ゲームといった類の浮世絵が江戸時代から明治にかけて作り続けられた。日本が長い鎖国にもかかわらず急速な近代化を達成できたのも、庶民の子どもたちがこれらの遊びを通して、基礎的教育を受けていたからともいえる。




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歌川一寿斎芳員   Utagawa Yoshikazu
生没年:不詳
号:一川、一寿斎、春斎など。
俗称:治郎兵衛または治郎吉。国芳の門人。

 作画期は嘉永から明治3年頃までであり、貞秀と同様に異国風俗に心を惹かれ、横浜に移り住んで万延から多数の横浜絵を描いた。現在知られている横浜絵の半数以上は、この芳員と貞秀の手に成るものであり、その意味では特異な絵師の一人と呼べる。貞秀ほど忠実な描写ではないが、稚気に溢れたのどかな画面には、好感がもたれる。




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歌川一登斎芳綱   Utagawa Yoshitsuna
生没年:不詳
号:一登斎
国芳門下




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歌川一英斎芳艶   Utagawa Yoshitsuya
生没年:文政5年〜慶応2年(1822-66)享年44
号:一英斎
国芳門下




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歌川一宝斎芳房   Utagawa Yoshifusa
生没年:不詳
号:一宝斎
国芳門下

 絵師芳房はやはり国芳門下で、将来を嘱望されるほどの技量を発揮したが、惜しむらくは24歳の若さで亡くなった。




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歌川玉欄斎貞秀   Utagawa Sadahide
生没年:文化四年〜明治十二年頃(1807〜79頃) 享年72頃
作画期:文政九年〜明治八年頃(1826〜76頃)
号:玉蘭斎、五雲亭

 安政六年(1859)徳川幕府は鎖国を解き、横浜を開港。一気に押し寄せる異国の文化に日本人はカルチャーショックを受けた。江戸の版元は浮世絵師に横浜を取材させ、外人居留地・西洋館・商店街・蒸気船・港湾・外国人の生活風俗などを版画にした「横浜絵」を売り出した。最も盛んなのは万延元年(1860)と翌文久元年の二年間。この時期だけでも400種以上が貞秀らによって描かれた。貞秀は下総の国布佐(現千葉県松戸市)の生まれ。本名橋本兼次郎。国貞に入門し、十四歳で挿絵を描く。はじめ五雲亭、のちに玉蘭斎と号す。国芳と同じように西洋銅版画の切抜きを集めて写実法を学んだ。芸術家というより学者肌の人で他の絵師の印象的描写に対し、彼のそれには現実感があり、一覧図、鳥瞰図の制作にも才能を発揮し、横浜絵の大成者と呼ばれた。三代豊国没後は貞秀が名実共に人気一位となり、慶応二年(1866)にはパリ万国博に浮世絵師代表として渡欧するなど活躍したが、維新のめまぐるしい価値変動に時流からはずれ、その死さえも記録に残っていない。




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豊原華蝶楼国周   Toyohara Kunichika
生没年:天保六年〜明治三十三年(1835〜1900) 享年66
作画期:嘉永末頃〜没年(1853頃〜)
号:華蝶楼、一鴬斎、米翁、豊春楼など

 本名、大島八十八。京橋三十間堀に住まいした大工職大島九十郎の子。後年、母方の姓を継いで荒川とした。兄が押絵羽子板の店を営んでいた関係からか、押絵師豊原周信についたが嘉永元年三代豊国に入門。だが彼は入門後も歌川を名乗らず、相変わらず豊原と称し画名も国周としている。安政、万延年間には多数の挿絵を描き世間に知られてはいたが、一流といわれるようになったのは文久に入ってからである。明治2年、傑作と言われる役者大首絵シリーズ22枚を発表、これが出世作となって明治の写楽とまで賞賛されるようになった。彼は役者絵師と呼ばれるだけあって無数の役者絵を残しているが、美人画にも優れた才能を見せている。文明開化で急速な近代社会への変動に浮世絵師も古い殻を破って新しい時代に対応していかなければならなかったが、そのなかで、江戸風をかたくなに守って役者絵を描き続けたのが国周である。芳年、清親とともに明治浮世絵会の三傑に数えられている。江戸っ子気質の国周は宵越しの銭は持たず、稼いだ金で大酒を飲み、懐はいつも空で長屋暮らし。生涯に転居が103回、妻を替えること40数回という奇人であった。



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