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 原大隅守の墓   <長野市篠ノ井会> アクセス

■地蔵寺



 原大隅守の墓
「甲陽軍艦」では、永禄4年(1561)9月10日の第4回川中島の戦いで、八幡原の信玄本陣に単騎乗りこんだ上杉謙信に向け、鑓を繰りだし、信玄の窮地を救った人物として書かれている。 同書によると、原大隅守は横目衆の一人で、中間頭として描かれ、一人で三十人宛ての寄子を持ち、大手の番、甲州口方面の奉行を勤めたとされる。(本寺の位牌は原大偶守となっています。)
    —「川中島の戦い」ゆかりの地整備保存会 現地案内文を掲載—
また、横目衆として信玄から賜った感状が18通もあったとされ、かなり武勇に秀でた武将であったと推察される。

原 虎吉(はら とらよし、生没年不詳)、通称半右衛門。
※武田家滅亡後は徳川家康に召抱えられたとの説があるが不明。没年も天正14年(1586)3月とも天正12年(1584)3月ともいわれ定かでない。

※横目衆…横目・目付、戦国時代,武田氏・上杉氏などの大名家におかれた職名。新帰属の国に派遣し,将士の動勢を監察した。家臣全体を監察したり、土豪や敵国の内情を探るスパイの役目も果たした。本来は室町幕府の所司代に属して密告を受け持った役職を目付といっていたが、戦国時代になると合戦場における監察役、平時にも同じ職務を担当するようになった。総横目は横目の最上位。

※寄子…軍事組織の構成単位で、家臣団のうち、有力者が寄親となり、その下に配属された中小武士を寄子(寄騎、同心)という。合戦が起これば、寄子たちは寄親のもとに集まり、軍団を形成して出陣した。他国からの浪人や農民を戦闘集団として統率するには地侍や血縁だけでは成り立たないので、寄親・寄子というピラミッドをいくつも集積し、軍事組織を形成していた。


 浮世絵では両雄の一騎討ちを描いた作品が最も多く、必然的に原大隅守が描かれることが多い。
             浮世絵を見る→川中嶋信玄謙信旗本大合戦之図
■原大隅守の墓



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