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川中島合戦史跡巡り
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 高坂弾正忠昌信の墓(明徳寺)   <長野市松代町豊栄> アクセス

■明徳寺参道


 高坂弾正は武田氏の兵糧係の頭領だった甲斐石和の豪農・春日大隅の子として生まれた。16歳までは雑役であったが信玄に認められて二十人衆に加えられた。これをきっかけとして近習に昇進した。信玄の寵童であったといわれるがそれに甘んじることなく、着々と戦場で武功を重ね、26歳で騎馬150騎を預かる侍大将となり、やがて高坂弾正と名乗って対上杉の前線基地である海津城を任されたのである。農民出身でありながら信玄に見い出され武田二十四将、四名臣のひとりといわれ、一代で9千貫を領する重臣にまで昇りつめた武田家家臣の出世頭といえる。
 永禄4年(1561)の川中島合戦では、妻女山別働隊を率い、一度は敗色濃厚だった武田本隊を窮地から救う働きをした。合戦後は一帯の屍を敵味方の区別なく丁重に葬り、武具や遺品までも回収して敵方越後に引き渡したといわれる。この行為に感激した上杉謙信は後年、塩不足に悩む武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれる。まさに乱世に咲いた美挙、「敵に塩を送る」とはここから生まれたのです。

 山本勘介から兵法や築城の教えを受けたとされ、有名な「甲陽軍艦」は高坂弾正が甥の春日惣次郎と家臣の大蔵彦十郎の協力を得て作成したのが原本とされる。

 高坂弾正は保科正俊の「槍弾正」、真田幸隆の「攻め弾正」と並び、「逃げ弾正」と呼ばれ、戦国の三弾正とされる。「逃げ弾正」といっても合戦に際して、集めた情報を冷静に分析し慎重かつ明晰な判断で決して無益な戦をしない性格をあらわすが、そう記されている「甲陽軍鑑」は弾正自身が書いたため、自ら謙遜してそう称したのであろう。また、しんがりを努めることが多かったようである。
 信玄上洛途上での三方が原の戦いでも、浜松城に追い込んだ徳川家康に対し、城攻めを唱える家臣一同に弾正一人が「深追いは避けるべき」と異論を唱え、信玄もこの進言に従ったという。
 信玄亡き後も勝頼を重臣として支えるもそりが合わず疎まれることもあったという。長篠の合戦には参戦しなかったが、大敗して逃げ帰る勝頼を途中まで出迎え、せめて敗戦の惨めさを領民に見せないようにと新しい馬具甲冑を用意したと伝わる。
川中島の戦後処理といい、温厚で気配り良く、忠心厚き人柄が偲ばれる。

 この後、武田・上杉・北条3家の同盟締結に奔走し、上杉と同盟を結ぶことを成功させる。しかし、謙信が急逝して上杉家に家督争いが起こると同時に、武田は急速に衰退する。そのさなか、弾正は1578(天正6)年5月、海津城にて病死(享年52)した。武田氏滅亡の4年前である。
自ら再興したと伝わる豊栄の明徳寺(蛙合戦で有名)に遺言で埋葬。

幼名は源助、源五郎。元服して春日虎綱。
山形昌景、馬場信春、内藤昌豊とともに武田四名臣のひとり。
春日弾正忠虎綱。高坂弾正忠昌信。本名の春日姓で出仕し、海津城代のとき高坂(香坂)姓に改名、後日また春日姓も名乗っているため春日名と高坂名が混在している。
■高坂弾正忠昌信の墓


■案内の標柱

 
●明徳寺について
 明徳寺(めいとくじ)は、長野県長野市松代町豊栄にある曹洞宗の寺院。
山号は、龍潭山。本尊は薬師如来(鎌倉時代作)。
 高坂弾正の墓のほか、夜な夜な小僧に化けて酒を買いにでかけたという「酒飲み弥勒」の伝承がある弥勒菩薩も本尊のほかに安置されている。
本堂裏手には、ヒキガエルの産卵場所になる「蛙合戦」の池(長野市指定天然記念物・1967年(昭和42年)11月1日指定)などがある。
 また、大東亜戦争における硫黄島の戦いの指揮官栗林忠道大将の墓もある。
  
・蛙合戦の碑(奥が本堂)


・山門
・陸軍大将栗林忠道の墓


・栗林忠道・今井武夫顕彰平和宣誓碑

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 栗林大将の墓には、ウィスキーや日本酒が幾本も供えられていた。
大将といえど洗顔と歯磨きにコップ一杯の水だけといわれた硫黄島の戦い。それほど水の確保に苦しんだ故人に思いを寄せてか、ミネラルウォーターも数本、…ジーンときた。


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